>back

 

「構想」第六号 2004.3.23

《巻頭特集・「私と『構想』」》

 

私にとっての構想。

難波博孝


 私にとっての構想。文学教育なんて大嫌いだということが、実は大嘘だったことがばれてしまったところ。しっててやっちゃった。

 私にとっての構想。中学時代の文芸部で同人誌を作っていたことを思い出させたもの。「扉」なんて名前で。ご存じでしょう?竹村先輩!!

 私にとっての構想。力が入りっぱなしだった肩の力を、抜けさせてくれた輩。だって、脱力作品ばっかりだもの!

 私にとっての構想。表現すること、創作することの楽しさを、思い出させてくれた奴。演劇をはじめる勇気をくれました。

 私にとっての構想。 ずっと ずっと 大切な 心たち。

 

 

動いたのだ、未知の方へ

山元隆春


 一九八二年の春頃、同級生のKとOと私の三人で、同人誌を作ることを決めた。三人とも優柔不断なことは共通していたから、決めたというがそれは至極曖昧な記憶である。いや、降って湧いたように決断し、やろう!ということになったように思う。場所は私住んでいたアパートの、狭い六畳ほどの部屋だった。
 同人誌の名前は『構想』。奇しくもこの同人誌と同じだった。少なくとも、この同人誌を始めた人たちと同じで、皆目見当のつかない「これから」にいくばくかの不安を感じながら、それでも「今」を、なにごとかを創りながら過ごしていこうとしていたことは確かであった。何ものも所有しない者たちであったからこそ、無からのヴィジョンを示そうというような気持ちもあって、いつしか同人誌の誌名は『構想』と決まった。創刊号の表紙はKの高校時代の友人であった美大生にお願いするという念の入れようで、しかも生協の書籍部に頼み込んで一冊二百円で五冊置いてもらい、完売するという厚かましさでもあった。
 その創刊号の表紙に、作成者のKの友人の手になるコピーが刷り込まれている。「ひっぱりあわないでだきあおうよ」と。その後、KとOが卒業してからも十一号まで不定期に刊行され、終刊を迎えたこの同人誌の、繰り返される重要な主題は「コミュニケーション」であったとおぼろげに記憶している。いや、確かにそうだった。私たちはなぜつながろうとするのか。なぜ同人誌などを出そうとするのか。ほんとうにつながろうと思っているのか。どうして、不特定多数の人々にまで文章を書いて発表しようとするのか。読者層はたぶん限られた範囲にしか存在しないにもかかわらず。そしてなぜ、今この同人誌をやめてしまわないのか。続けていこうとするお前の心には欺瞞はないか。惰性はないか。時にこのような問いを巡るやりとりが誌面にあらわれることもあった。誌面以外のことも含めて、夜の下宿や喫茶店で語った。いや、正確に言えば「異議」を唱え合ったと言ったほうがいいだろう。「だきあう」どころか、心に数知れぬ痛みを覚え、おそらく確実にたくさんの人を傷つけている。
 「ひっぱりあわないでだきあおうよ」という創刊号表紙のコピーの「記号内容」は、いまだに確定していないと思われる。この同人誌にはKやOや私だけでなく、六歳ほどの幅で各年齢の十人を超える人びとが関わり、執筆者として登場していたが、誰も、この「記号表現」の意味を確定しないままに、十一号まで刊行して、最終号の編集者であった私は一九八八年の春に広島を一旦去ることになる。六年間、この同人誌を出し続けたことの意味は、「ひっぱりあわないでだきあおうよ」というメッセージの意味同様、確定してはいない。
 それから十年ほどして、私はこの『構想』に巡りあうことになる。編集者の大塚君にはじめてこの『構想』の確か創刊号を手渡された時、少し動揺した。かつての『構想』を刊行していたときの思い出がよみがえってきて動揺したのではない。二十年ほどの歳月が過ぎても、「表現者」としてこのような営みを続けている人たちがいるということと、そのことを営んでいる人びとが選び取った誌名が、かつての自分たちと同じものであったことに心動いたのである。
 申し訳ないことに、合評会には一度も参加していない。わずかながらの感想をメールで大塚君に届け、はじめて詩を載せていただいたときに、「同人」の皆さんの丁重であたたかい感想メモを、これも大塚君からいただいた。そう、あたたかかった。あたたかい場所が築かれていると思った。
古い『構想』に「同人誌の意味」というタイトルの短い文章を書いた記憶だけある。その中身は忘れてしまったのだが、ただ、同人誌を出すということが、原稿を集めて印刷し製本してそれで終わりではないというような意味のことを書いたことは覚えている。けれど、安易なかたちで連帯感などそこから生まれることはない。むしろ、自分の書いたものが人にどのように読まれるのかという期待と不安。やはりそうだったのか、という失望。何もそこまで言わなくてもという敵意。自分にはそこまで書くことはできない、という羨望。もちろん、受け入れてもらったことで生じる安堵。今度はまたこのように書こうという意思。同人誌を出し続けるということは、そのようなものが、渾然一体として生じてしまうということなのだ。
 けっして「ヨイショ」をするわけではない。大塚君のエディターシップがあって、それに応じた同人たちの協働があって、この『構想』はここまで歩んできた。きっと、関わる人一人一人の生活における『構想』の重みづけはさまざまで、中心に位置づく人もいれば、周縁にしか位置付かない人もいたはずだ。それでよいのだと思う。だが、ここまで何人もの人で「創る」ことを問うてきたその記憶は確実に残る。昔の『構想』と同じく、この『構想』にも、それを刊行する過程でさまざまなドラマがあったに違いない。すべては何もないところから始まったのだし、始めなければ生まれなかった関わりが、始めたことで生まれたのだ。動いたのだ、未知の方へ。だから『構想』なのだと思う。
 大塚君、誘ってくれてありがとう。そしてこの『構想』に集ったすべての人に。動き続けて疲れたら、一休みすればいい。そしてまた、未知の方へ。

 

 

構想』休刊に寄せて。

柴田文寛


 「構想」が出されて、もう4年が過ぎました。発起人であり、編集長でもある大塚君が修了と言うことで、一区切りをつけて終わるというのは、少々残念な気がします。
 こういった同人活動で、本を出すのはもちろん大変ですが、続けていくのはそれ以上に大変です。不定期とはいえ、ちゃんと二号三号と刊をかさねていった大塚君の、責任感と意志の強さはすばらしいものだと思います。
 「構想」はこれで一旦終わりですが、近い将来、「構想」メンバーの新たな作品を読む機会が有ればなと、勝手に期待を押しつけて、あいさつといたします。皆様、お疲れ様でした。

 

 

『構想』との日々

弘中洋志


 「構想」は僕にとって、大学4年間、正確に言えば3年とちょっとの間、「当たり前」のように存在していたものでした。
 僕は、中学校の頃から趣味で詞を書いていたのですが、大学にはいるまでは本当に一人で書き殴って終わり、といった感じでした(一応、わずかながら投稿もしてましたが…)。なので、大塚さんから書いてみろと半ば脅しのように誘われた時には多少迷いました。しかし、どうせならオープンにしてしまった方が気も楽だろうし、いい機会だと思ったので、書かせてもらうことにしました。これが、スタートでした。
 「構想」で書き始めてからしばらくして、誰かに読んでもらうことに抵抗がなくなったので、ホームページも開設し、両方で発表するようになりました。どれくらいの人に僕の「コトバ」が届いているのかは分かりませんが、人の目を意識するとやっぱり違うもので、昔に比べて「マシになったなぁ」と思います。
 もしも「構想」がなければ、また「構想」に関わることがなかったら、今の僕は確実にいないでしょう。そういう意味でも、本当に大きなものだった、と思っています。

 最終号となった今号には、「K」という作品集を寄稿させてもらいました。この「K」には、たくさんの意味を込めています。目を通して、少しでも気にして頂ければ幸いです。この「K」には僕が4年間で感じたこと、考えてきたこと、得たこと、そして失うこと、さらには新しく始まることへの思いを詰め込んでみました。
 完全に満足できるものなど、一度も作れたことはありませんが、最後、という意味では相応しいものができたのではないかな、と思っています。そういう、シチュエーションに合わせて創作していくことの楽しさも教えてくれた「構想」と、その主催者である大塚さんには本当に感謝しています。4年間、どうもありがとうございました。

 

 

いくつもの物語のあいだで

大塚崇史


 物語を書きはじめた頃、私はそれをどうにかして自分の思い通りにしようと苦心していた。書きたいこと、言いたいことをガチガチの筋にまとめ、その上に寸分違うことなくストーリーを走らせていくことを望んだ。
 しかし、そう考えれば考えるほど、物語は言うことを聞いてくれなかった。書けば書くほど、筋を脱線したり、思わぬ方向へ飛んでいったりするばかりだった。私はそれをどうすることもできず、どうにかして自分の固めた筋へと無理矢理に引き戻そうとするのだけれど、結局、物語は暴走し、結果、未完のままで放り出してしまった物語の残骸がたくさん出来てしまった。
 そのうちに物語が進んでいこうとする方向に任せてみよう、と思うようになった。展開も、結末も決めないまま、書きはじめることが多くなった。途中で頓挫してしまうことも無論、多かったが、計算したり、綿密に伏線を張り巡らせたりしているわけでもないのに思わぬところがつながっていたり、何気なく書いたことばが、あとになってとんでもなく重い意味をもったりと、確かに書いている本人なのに、その物語の軌跡に驚かされることも多かった。
 物語を書くことが本当に楽しくなってきたのはその頃からだと思う。
 
 「構想」というこの雑誌もまた、こうしたひとつの「物語」だと言えるかもしれない。
 あるひとつのきまった「筋」の上を走っているわけでもなく、同人の思想、書きたいことや言いたいことが、ひとつの目指すべき地平を持っているというわけでもない。ひとつひとつの作品、小説や詩や随想、コラムといったものが決して融合することなく、混沌としたままごったがえしている、というのがこの雑誌の一番の特徴である。
 しかし、それらはこの雑誌を手にした読者のなかで、思わぬ繋がりを生じさせ、新しい「筋」を生み出していくような物語たちであった筈である。それぞれの書き手の抱えている、一つひとつの物語が読み手の様々なかたちの物語と繋がりあい、もうひとつの新しい物語が紡がれていく、そんな可能性を秘めた「物語」であった筈である。
 
 この「構想」という「物語」のなか、いくつもの物語のあいだで、「私」という物語を紡いでいくことの出来たこの数年間は、本当に楽しく、スリリングな、読み応えのある「物語」であったな、と思う。

 

 

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送