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「構想」第六号 2004.3.23


断章

大塚崇史


  1
  なだらかな坂をバスがすべり下りていく。窓の外を見慣れた景色が流れていく。時折、バスが停まり、何人かの人たちが降りて行き、また何人かの人が乗り込み、また動き出す。
 六年前、新しい生活への不安と期待をポケット一杯に詰め込んでこの坂を上っていった頃のことが心のなかの画面を過ぎる。

 さつきが電話をしてきたのは一週間前のことだった。何人かの仲間とともに、久しぶりにこの街を訪れるということだった。そして今夜、一緒に飲もうということになった。
 さつきと僕は三年前に出会い、半年ほど付き合って別れた。別れた理由は、一言で語れるようなものではなかった。そこには様々な要素があり、それらは互いに複雑に絡み合っていた。今となっては、もう、どうでもいいことだ。
 二年前、さつきは教師として地元に戻り、僕は大学院に進学してこの街に残った。それから、一度も連絡はとっていない。

 夕暮どきの窓の向こうを眺めながら、書きあぐねている小説の断片が浮かんでは消えていく。
 ちっぽけな同人誌を一緒にたちあげた仲間たちも、二年前、それぞれの地元へ帰っていった。教師をしている者、会社勤めをしている者、とっくに父親、母親になっている者もいる。小説なんて書いているのは、今はもう僕だけになってしまった。僕ももう一ヶ月後には地元で教壇に立つ。きっと、小説なんて書いている暇もなくなるだろう。

 バスがまた停まり、何人かの客が乗り込んでくる。何気なくその様子を眺めていた僕の眼に、一人の小柄な女性が映り込んできた。大学の購買部で働いている女性だった。
 ことばを交わしたことはなかったが、昼食を買いに行く僕とは、毎日のように顔を合わせている。いつも、笑顔で対応してくれる彼女だが、その笑みには、いつも得体の知れない寂しさの影があった。
 彼女はとくに僕に気付いている様子はなかった。小さな身体には不釣り合いな大きなボストンバッグを肩から提げ、左手にはサッカーボール位の大きさの巾着のような袋を持っている。購買部のカウンターに立っているときのエプロンをしていないだけで、服装はいつもと同じようなブルー・ジーンズにベージュの薄手のセーターを着けていた。
 彼女は僕の斜めふたつ前のシートに腰を下ろし、窓の外へ視線を置いた。バスがゆっくりと走り始めた。
 僕は、どういうわけか彼女のことが気になって仕方がなかった。窓の外をじっと見ている、彼女のいつもの寂しい色の眼が、僕を捉えて離さなかった。
 僕は相変わらず、書きかけの小説の断片を思い浮かべながら、いつの間にか、彼女から眼が離せなくなっていた。


  2
 雨が降りはじめた。予期せぬ雨に、駅前にいた人々は四方へ散らばっていった。
 私は駅前にあるケーキ屋の軒の下で散々になって走り去ってゆく人々を眺めていた。ほんの少し走れば、駅の入り口にたどりつけるほどの距離だが、何となくそこを動く気にはなれなかった。
 街は灰色だった。灰色の顔をした人々が雨と灰色の中を走って行った。全ては色を着け忘れた出来損ないの水彩画だった。そしてそれはこの雨の中で静かに溶けているのだ。音もなく、ゆっくりと、しかし確実に、そして誰にもそのことに気付かれることなく。
 私は煙草を取り出して火をつけた。煙は口のなかに広がり、ゆっくりと胃の奥へと拡散していった。腹の壁に微かな痛みを感じて、私は目を閉じた。間断なく続く雨音に混じって、遠く人の声が聞こえてくる。雨がまきあげる埃の匂いが鼻腔へと流れこんでくる。
 そうやって眼を閉じていても、眼の前にあるものは変わらなかった。何故なら気付かないうちに溶けていくのは私も同じだからだ。灰色の私は、灰色の街や人とともに溶けてゆくのだ。眠りの中にもきっと、雨は降り続いているのだろう。そして、眠りという時間の澱みに逃げ込んだ私をやさしく溶かしてゆくのだ。
 たまらなくなって目を開くと、また先刻と同じ光景が広がっている。私は身体中に行き渡った煙を吐き出した。
 その時、不意に私の前を赤い傘が通り過ぎた。高校生くらいだろうか。一人の小柄な少女が広場を横切り、駅前の古びた商店街の方へと歩いていった。
 一瞬、ほんの一瞬のことだったが、その少女の像は私の眼にはっきりと焼き付けられていた。それはその赤い傘と、彼女の白い頬を伝っていた涙の筋の所為だった。
 ひょっとすると、それは雨滴だったのかもしれない・・・否、違う。あれは確かに、涙だった。少女の潤んだ瞳の色が淡く、浮かんだ。
 私は短くなった煙草を足もとに落とし、その赤い傘の後に、ついていくことにした。


    3
 文化祭の過ぎた放課後の教室は、まるで焼け跡のように静まりかえっていた。
 開け放たれた廊下の窓から、秋のつめたい風のにおいがした。うっかり肺の奥まで吸い込んでしまえば、こころの奥まで冷え切ってしまいそうな、そんな季節だ。私は窓を閉め、足早に階段を上った。
 三階まで来たとき、どこかの教室から、ヴァイオリンの音色が聞こえてきた。音楽科の生徒だろうか。それにしても、もう六時をとっくに回っている。私は音のする方へと歩みを進めていった。
 音は突き当たりの教室からこぼれていた。誰もいない教室に女生徒がひとり、机の上に腰掛けて、ヴァイオリンを弾いていた。明かりも点けず、オレンジ色に染まった教室のなかで、彼女はただ、「ツィゴイネルワイゼン」の旋律を奏でていた。
 私は声をかけることもできず、ただ彼女の調べに耳を傾けていた。夕暮のなか、弦の上を滑っていく、それだけが別の生き物のような白く細い指、影の落ちた横顔、ここではない別のどこかを見つめているような深い眼差しは私に何かを思い出させていた。
 曲が終わると、彼女はぴょんと机の上から飛び降り、私の方を振り返って頭を下げた。
「すみません。もう、帰りますから」
「えっ、ああ、いや、うん」
 不意を突かれたのはむしろ私の方だった。長い黒い髪の少女が夕日を背にしてそこに立っていた。大きな、深い色をした眼が私をじっと見つめていた。意識の隅を軽く踏まれたようだった。
「…君は、音楽科の人?」
「はい。二年の坂井です。坂井有希恵です」
「そうか…僕は音楽科のクラスには授業に行っていないからな。僕は…」
「知ってます」
「へっ?」
「広川先生ですよね」
 また不意打ちを食らう。
「そんなの…私もこの学校の生徒ですから、一応」
 間抜けな顔をしていたであろう私の思いを先取りするように、彼女が可笑しそうに言う。大きな黒い眼がわずかに細くなる。魅力的な笑顔だった。つられて、私も笑う。
「こんな時間まで練習してるの?」
「いえ…今日はなんだか、まっすぐ家に帰る気になれなくて…」
 有希恵は悪戯っぽく笑った。どこかで見たことのある、懐かしい表情のように感じた。あるいは、印象的な、底の見えない程の深い色をした少女の眼に、どうしようもなく惹かれていたのかもしれない。
 私は坂井有希恵が先刻まで座っていた机の隣の席に腰を下ろした。
「ええっと、坂井さん」
「はい?」
「もう一曲、なにか弾いてくれないかな?」
 少女は一瞬、きょとんとした顔をしていたが、すぐに口元を緩めて、再びヴァイオリンを構えた。


  4
 バスが駅に着くまで、彼女は視線を窓の外から動かそうとはしなかった。僕の視線もまた、そこから動かなかった。
 僕よりも五つほど年上に見える彼女の横顔を眺めながら、いつの間にか、さつきのことを思い出していた。


 別れてからちょうど一年が過ぎようとしていたある春の夜、さつきから電話があった。
「…これから、そっちへ行ってもいい?」
 いくつかの話の断片から、不意にさつきはそのことばを僕に継いだ。僕は拒むことができなかった。
 さつきは付き合っていた男と別れたばかりだった。無論、そのことはあとになって聞いたことで、その夜はただ、僕に会いたくなったとだけ彼女は言った。
 久しぶりに僕の部屋に座っている彼女は、なんだかとても不均衡に見えた。それは彼女が歪んでしまっていたからなのか、それとも僕が歪んでしまっていたからなのか、今となってはわからない。
 その夜の彼女はひたすらひとりでしゃべり続けた。高校生の頃のこと、大学に入ったばかりの頃のこと、地元の両親、兄弟のこと、最近どんな映画をみて、どんな本を読んだかということなど、とにかくそれらはとりとめがなく、唐突にはじまって、突然終わり、また次の話が始まっていくという具合だった。
 僕は煙草を吸ったり、ビールを飲んだりしながら、時折相づちをうち、ただ彼女の話に耳を傾けていた。
  はっきりとわかったことは、彼女のことばが方向性や指向性といったものを著しく欠いていたということ。つまり、それらは地面に掘った、底が見えないくらい深い穴に向かって発せられることばと同種のものだということだ。…「王様の耳はロバの耳!」
 そして彼女の話す話題からは二つの事項が削除されているということ。ひとつはそのときに付き合っていた(正確にはそのとき別れてしまっていた)男のこと、もうひとつは僕と彼女が付き合っていた頃のこと。
 結局、彼女は明け方までしゃべり続け、いつの間にか眠ってしまった。

 あの夜、僕は彼女を抱くべきだったのかもしれない。たとえ、それが正しくないことだったとしても。彼女はあの夜、そういうかたちの優しさを求めていたし、僕はそれを与えることができたはずだった。

 同じようにいつの間にか眠ってしまった僕が目覚めたとき、もうさつきの姿は部屋にはなかった。テーブルの上に、ただ「ありがとう。」と書かれたメモが置かれてあるだけだった。


 バスが駅に着いた。さつきたちと約束をした場所までは電車で40分ほどかかる。
 バスが少し遅れたせいか、彼女はしきりに時計を気にしながら、そわそわしていた。乗降口のところで小銭を数えている老婆の後ろで当惑している彼女の顔は、余計に寂しく歪んで見えた。
 やっとのことでバスを降りた彼女は、急いで改札口の方へと向かおうとした。しかしそのとき、彼女の提げていたあの巾着がバスのドアに引っかかり、そのまま引っ張られた所為で一気に裂けてしまった。
 一瞬、何が起こったのか理解できなかった。気が付けば、無数のオレンジ色の粒子が宙を舞っていた。それは硝子玉だった。たくさんの硝子玉が夕暮の陽の光を浴び、飛散していった。
 暫くの間、彼女もバスの運転手も、一足先にバスを降りていたあの老婆も、そして僕も動くことを忘れていた。場面だけが凍りつき、ガラス玉が地面を叩く無数の音だけが時間の流れを教えていた。
 彼女はすぐに我に返り、辺りに散らばった硝子玉を拾い集めはじめた。通り過ぎる人々の視線は冷たく、いかにも迷惑そうに眉を顰め、舌打ちする人もいる。
 彼女は小声で、すみません、すみませんを繰り返しながら、飛び散った硝子玉を必死に掻き集めていた。
 僕はバスのステップから降り、しゃがみこんで硝子玉を集め始めた。
「あっ、いいです、いいですから…」
 彼女はそう言いながら僕の方を見て、ちょっとだけ表情を動かした。そして僕が何も言わず、拾うのをやめないのを見ると、また彼女も忙しく手を動かし始めた。
 それから暫くの間、僕と彼女は黙ったまま、ただ無数の硝子玉を拾い続けた。

 

  5
 細い路地を何度も曲がり、うらぶれた商店街を抜けて、赤い傘は雨の中を進んでいく。まるで、暗く深い森の奥へと私を誘い込んでいるかのようだった。
 卯の花腐しの春の雨は、先刻と同じ強さで、しかし決して途絶えることなく、規則的に街に降り注いでいた。そして、無論それは平等に私の身体も浸していた。
 雨か汗の所為で滲んだ視界のなか、赤い傘が次の角を曲がるのが見えた。これまでと同じように角を曲がると、そこに傘の姿はなかった。
 曲がった先は行き止まりになっており、古いつくりの建物があるだけだった。
 「森華堂」―看板にはそう書かれている。
 私は暫くの間、躊躇していたが、その古びた、重そうな扉を押した。嫌な音がして、扉が店のなかへと飲み込まれていく。なまあたたかい空気が私の身体を包む。
 「森華堂」のなかは薄暗く、埃っぽい匂いが立ちこめていた。足を踏み入れると、板張りの古い床がギィと音をたてた。
 バタン、と背後で扉が閉じた。天井近くの明かりとりだけで、他に窓はついていないため、店のなかは一層、暗くなった。私は、入り口のところに立ったまま、眼が慣れるのを待った。
 店のなかは物音ひとつしない。屋根を叩く雨の音がひどく、遠く聞こえる。まるで、世界から遮断されてしまったみたいだ。
 ゆっくりと、闇が身体に馴染みはじめ、視界が拡がっていく。ぼんやりと、辺りの輪郭が私のなかで像を結びはじめ・・・

・・・あれは?

 ちょうど部屋の真ん中辺りに何かが落ちていた。
 眼を凝らすと、水をしたたらせたままの赤い傘と、その傍らに小さな人形が俯せになったまま横たわっていた。人形の頭の上には、ちょうど人の顔の大きさ程の扁平な物体が転がっていた。

・・・仮面、か?

「いらっしゃい」


  6
「先生…先生!」
 眠っていたわけではなかった。意識に薄い皮膜がかかっているような鈍い感覚があった。
 気が付くと、坂井有希恵が肩を叩き、不思議そうな眼で私の顔を覗き込んでいた。曲はとっくに終わっているのに、私は暫くの間、眼を閉じたまま、黙っていたらしい。
 ―彼女は何を弾いていたのだったか…そうだ、ヴァイオリン・ソロに編曲された「シシリエンヌ」だった。
「眠っちゃってたんですか? ひどーい」
 有希恵は笑顔のままちょっとだけ私の方を睨んだ。
「…いや、ちゃんと聴いてた。思い出していたんだ、君の音色があまりに心地良かったから」
「何を…ですか?」
「昔…書きかけたまま未完になっている物語のこと」
「物語?」
「うん。学生の頃にね、ちょっとだけ」

 あの頃、私は仲間たちと一緒に小さな同人誌を作っていた。小説とも呼べないような未熟な物語や、詩のような稚いことばの断片を粗末な紙に刻んだだけの薄い冊子は、それでも仲間たちが大学を去っていくまで続けられた。
 合評会では、いつも私の物語が俎上に載せられた。私の物語はどこまでいっても物語であって、小説ではない、と何度も酷評された。初めのうちは悔しい思いをしたが、次第にそれは批判のことばではなく、この上ない褒めことばとして受け取るようになっていった。
 同人誌の最終号に載せるはずだった物語があった。しかし、どうしても途中から続かなくなり、結局、最終号には他の物語を載せることになった。
 同人誌がなくなったあとも、私はいくつかの物語を書いたが、何度試みても、その物語だけはうまく書き継ぐことが出来なかった。結局、私が大学院を修了しても、それは未完成のままだった。

 ―そう、確か題名は…

「聞きたいな」
「へっ?」
「先生のお話、聞きたい」
 また不意を突かれる。
「いや、だから、未完成なんだよ。それに、面白くもなんともない話だよ。聞いても、君のヴァイオリンみたいに心地良いものでもない」
「途中まででもいいですよ。それに、面白いか面白くないかなんて、聞いた方が決めることでしょう。話してくれなきゃわからないですよ、そんなこと」
 大きな、深い色の両眸がじっと私の方を見ている。底の見通せないその眼に見つめられると、何かを拒むことはとてもできそうになかった。
 時計を見ると、6時半が過ぎようとしていた。
「よし、じゃあ話そう。素敵なヴァイオリンも聴かせてもらったしね。そのかわり、終わったら、今日はもう帰るんだよ。いいね」
 有希恵は白い歯をこぼして、はーい、と童女のようにはしゃぎ、私の隣に腰を下ろした。
 私は一息おいてから、何度となく読み返した冒頭の一節を有希恵に語りはじめた。


  7
 僕と彼女が何とかガラス玉を拾い終わり、ボストンバックに詰め終わったときには、とっくに彼女が乗るはずの電車は出たあとだった。
 空のホームに立って、僕たちは思わず顔を見合わせて笑った。
「まぁ、二十分後に次の電車がありますよ。僕もその電車にしよう。同じ方向だから」
「いえ、今日はもう無理なんです」
「えっ?」
「私、青森まで帰るんですもの。あれが、今日青森まで帰ることの出来る最後の電車なんです」
 彼女は困ったような、それでいてどこか諦めたような笑みを浮かべて言った。僕は継ぐべきことばを失い、黙って彼女を見つめていた。随分と間抜けな顔をしていたのだろう。彼女はそんな僕の姿を見て、くすくすと微笑った。
「…あ、さっきは本当にありがとうございました。助かりました」
「びっくりしましたよ。すごい数でしたね」
「ごめんなさい。おかしいでしょう、こんなおばさんがあんな硝子玉、大事そうに抱えて」
「大切なものなんでしょう?」
「ええ…」
 彼女の眼に、またあの得体の知れない寂しさの色が宿った。そのまま彼女は黙ってしまった。
 余計なことを聞いたかと思い、それじゃあ、と言ってホームの先の方へ去ろうとすると、思いがけず彼女が僕を呼び止めた。
「あの、もし、お急ぎでないのならお茶でも…さっきのお礼に…その、迷惑でなかったら…」
 遠慮がちに彼女はそう言った。
 時計を見た。さつきたちとの待ち合わせにはとても間に合いそうもない。どうせ遅れるのならば、もう同じことだ。
 何よりも、バスの中から僕を惹きつけて離さない彼女の寂しい横顔が気になった。それはどこか、あの夜と繋がっているように思えて仕方がなかった。さつきが僕の部屋を訪れたあの夜だ。僕はあの夜のさつきにもう一度会いたいと思った。
 僕は彼女と一緒に、駅前にある、小さな喫茶に入った。


  8
 「いらっしゃい」
 その声は、私の頭にはとても虚ろに響いた。とても同じ空間に居る人間の口から発せられたものであるとは思えなかった。
 言葉の主は、部屋の奥に設えられた小さなバーカウンターの中に居た。
「そんなところに突っ立ってないで、こちらにいらっしゃいな」
 その声がそう言い終わらないうちに、店の中がぱっと明るくなった。
 部屋は思いの外狭かった。
 私はどうしようもない息苦しさを感じた。その理由はわかっていた。部屋の壁一面を埋め尽くす、おびただしい数の面の所為だった。

 色も、形も、大きさも、全て違う。
 ただ一つ、同じなのはそのどれもが表情というものを持っていないということだった。
 「彼女」がカウンターをくぐり、こちらへと近づいてきた。
 グレーの毛糸の帽子を被り、白いシャツに黒の蝶ネクタイ、深い紺色のベスト、同じ色のパンツ。頭の先から爪先まで、どう見ても男の出で立ちである。いや、格好だけではない、確かな男のしるしが喉元に顕れていたし、何よりも先刻から聞こえている声は間違いなく老年の男のものだった。
 但し、深い皺の刻まれた目元にはシャドウが、口唇には強すぎる紅のルージュが引かれていた。その色は、何よりも雄弁に「彼女」の履歴を物語っているようだった。
 彼女はまっすぐに私の方へと歩み寄ってきたが、途中で急に立ち止まり、身を屈めて、床に落ちた面と人形と、そしてあの赤い傘を拾い上げた。
 面は随分と小振りで綺麗な楕円をしていたが、やはり、表情を持たなかった。
「まぁ座んなよ」
「いや・・・飲みに入ったわけではないんだが」
「つれないネ。そんなこと言わずに何か頼んでよ。最近は不景気でねェ。お客も来やしない」
 彼女は拾い上げた面を壁に戻し、人形を持ったままカウンターの中に戻っていった。傘はカウンターの端に掛けられた。
「赤い・・・その赤い傘をさした、高校生くらいの女の子が入ってきたと思うんだが」
「さあ、知らないね」
「知らないって・・・」
「夢でも見たんじゃないかい?」
「馬鹿な。私は確かにその女の子がここに入ってくるのを見たんだ。」
「あんたが見たものが確かなんてどうして言えるんだい?」
 赤い傘からは依然として雨の滴がしたたり落ちている。


  9
「…ここまで、なんだ」
 途切れたままの物語を語り終えたとき、先刻の私のように、有希恵は眼を閉じたまま、暫くの間動かなかった。その姿は、何だかとても清々しく、彼女のヴァイオリンの音色のように澄んでいた。
 両眸が、開かれた。それは前よりももっと深く、どんな強い光でさえも透過させない程の鈍い色を湛えていた。
「…私、いま、『森華堂』のなかに、立ってた」
「そう」
「何だか…不思議な感じ…」
「怖くなかった?」
「全然…逆に、何だろう…とてもあたたかいような、でも…とても寂しいような…」
 彼女の両眸は少し、潤んでいた。揺れながら、微かに、寂しい色に変わった。
「先生」
「うん?」
「私、馬鹿だから、うまく言えないけど…このお話、とても好きだよ。すごく、好き」
「ありがとう。そう言ってもらえると、少しだけこの不運な物語も救われたような気がするよ」
 私と彼女は見つめ合ったまま、どちらともなく微笑った。
「でも、いつか、続き、書くんだよね…書くんでしょう?」
「どうかな…今まで、何度書いてみても、駄目だったからね。ずっとこのままかもしれないよ」
「駄目!書かなきゃ駄目だよ。何年かかっても、何度書き直しても。このお話、きっと語られることを望んでる」
 彼女の深い色の眸に見つめられると、何ひとつとして拒否できないような気持になってくる。
「…まぁ、いつか、ね。書けたらいいな」
「じゃあ、書けたら一番に私に聞かせてくれる?」
「うん。書けたら、ね」
「約束約束!」
 そう言うと有希恵は強引に私と小指を絡ませ、指切りをした。そして、すっかり暗くなってしまった窓の外を見て、
「あっ、いけない、帰らなきゃ」
と言い、慌ててヴァイオリンのケースと鞄を抱えた。
「ありがとうございました。さようならっ!」
 有希恵は出口のところで私のほうを振り返り、ぺこりと頭を下げ、誰もいない廊下を駆けていった。


 それから毎日のように、放課後、誰もいなくなった教室で私は有希恵のヴァイオリンを聴き、古い物語を彼女に語って聞かせた。
 私たちは同じように、じっと眼を閉じてヴァイオリンを聴き、物語を聞いた。私と有希恵のまわりだけを、違う時間の流れがとりまき、対流していた。
 やわらかい、切ない、寂しい、そしていとおしいヴァイオリンの音色に導かれるように、私は物語を一つひとつ、思い出すように有希恵に語っていった。
 その度に、私のなかには得体の知れない、澱のようなものがわだかまっていった。そしてそれは次第に、あるひとつのかたちを作りはじめていた。
 語られていない物語がひとつ、あった。いや、それは私が無意識のうちに鍵をかけて心の底に閉じこめていたはずの物語だった。
 私はその物語を、語ろうとしていた。
 それは、「彼女」の物語だった。


    10
 彼女の名前は高橋美夜子といった。毎日のように顔を合わせているのに、初めて名を知ったというのも、何だかおかしな話だ。
 だが、僕と同じように、彼女も僕の顔を憶えていた。
「クロワッサン・サンドと野菜ジュース」
 美夜子さんはそう言うと、悪戯っぽく笑った。
「いつも同じもの、買っていくんですもの、憶えないわけないわ。それに、あなたいつも買ったものを受け取るとき『ありがとう』って言ってくれるでしょ、そんな人、他にいないもの」
 美夜子さんはまた可笑しそうに微笑った。
「そんなにおかしいかな」
 僕はちょっと傷ついた振りをして言った。
「あ、違うの違うの。その、嬉しいの。ありがとうって言ってくれるの、すごく」
 彼女はそう言いながら、ちょっとだけ恥ずかしそうに俯いて手元のティ・スプーンを指でくるくると回した。
 会話はそこで途切れた。当然と言えば当然だ。毎日顔は合わせていても、一度も話したことのない二人のあいだにそれ以上の話題などあるはずもなかった。僕は沈黙を繋ぐように苦いコーヒーに口唇をつけた。
 暫くして、美夜子さんが、そっと口を開いた。
「…主人の、形見なの。あの硝子玉」
 僕は少しだけ、驚いた。「主人」ということばが、目の前の美夜子さんにはとても相応しくないように思えた。
「主人が集めていたものなのよ。ほら、ラムネの瓶の。おかしな人でしょう、子どもの頃からずっと集めてたんですって」
 そう言うと美夜子さんは、ボストンバッグのなかから、先刻、苦労してふたりで拾い集めたばかりの硝子玉を一握り、テーブルの上に掴み出して見せた。十粒ほどの小さな硝子玉は、先刻のオレンジ色とは打って変わり、鈍い光を放っていた。
「僕も集めてたこと、ありましたよ。僕はビールとかジュースの王冠だったけど」
 僕がそう言うと美夜子さんは微笑って、その一つを摘み、光に透かしてその中を覗いてみせた。
「ほら、こうやって覗いてみて」
 彼女の真似をして硝子玉を覗くと、そのなかには硝子独特の小さな気泡とともに、葉脈のように無数の罅が張り巡らされていた。それは透過する光に独特の屈折を与え、美しい不調和な模様を描いていた。
「これね、フライパンで炒ると、こんな罅がなかに出来るの。それが綺麗なんだって、彼が言ってた」
 そう言いながら、美夜子さんの顔はまたあの寂しい色に染まっていた。
 再び、深い沈黙が訪れた。今度は美夜子さんがコーヒーに唇をあてた。
「…青森には、どうして?」
 堪えかねた僕は訊いた。
「友達がいて、お店…小さな軽食屋みたいなものなのだけれど…手伝わないかって言ってくれているの。主人が亡くなってから、ずっと誘ってくれてはいたんだけれど、なかなかここを離れる気になれなくて…でも、昨日がちょうど一周忌だったから、そろそろ潮時かなって思って…」
 そう言うと、また美夜子さんは沈黙のなかに身を沈めた。テーブルの上の硝子玉を指で弄びながら、眼はどこか違うところを見つめているようだった。
 僕はコーヒーをすすりながら、美夜子さんが次のことばを紡ぐのを待っていた。
「…三年前に結婚してから、二人で小さな雑貨店をやっていたの。本当に、小さな、でも、ふたりだけのお店。彼と私の、学生時代からの夢だったから…」
 ぽつりぽつり、少しずつ少しずつ、美夜子さんは語り始めた。
 決して儲かる商売ではなかったが、それでも二人が暮らしていけるくらいには収入もあり、毎日が楽しかったこと、月に一回、二人でお洒落をしてレストランで食事をしたり、映画を観たりするのが何よりの贅沢だったこと、しかし、二年前、夫が連帯保証人になっていた友人が借金を踏み倒して逃げてしまい、厳しい取り立てを受けるようになったこと、そして、どうにかして店だけは守ろうと金策に走り回っていた夫が、過労の末、居眠り運転でダンプカーと衝突したこと…。
 それらは順を追って語られたわけではなく、断片的に、きわめてアット・ランダムに美夜子さんの口からこぼれ落ちていった。
「…主人が亡くなってからも、何とか店だけは守らなきゃって思って、他のところからの借金をまわしたり、大学の購買部の他にも、一日にたくさんの仕事をして…夜も…でも…それでも…駄目だった…昨日…あの人の一周忌に…店を手放さなきゃ…いけなくなって…」
 止めどなく、美夜子さんの眼から涙がこぼれ落ちた。テーブルの上の硝子玉を握りしめて、美夜子さんは号泣していた。周りのことも、僕のことも、この世のすべてのものに構うことなく、ただ、はげしく号泣していた。

 いつまでたっても美夜子さんは泣きやまず、ひどく混乱していたので、とりあえず僕は彼女を連れ、近くのホテルに入った。それでも美夜子さんの号泣はなかなか止むことはなかった。
 結局、彼女が泣きやんだ…というか、そのまま眠ってしまったのは、夜中の十一時を回った頃だった。
 僕は一人で冷蔵庫のなかから缶ビールを出して飲み、煙草を吸いながら、明け方まで、罅だらけの無数の硝子玉のことを思い、美夜子さんの夫の死を思い、美夜子さんの激しい号泣を思い、さつきのことを思った。
 そして、僕はあと何度、こんな夜を過ごすことになるのだろうと思った。


    11
「まぁ、座んなヨ」
 そういうと、彼女は私にバー・カウンターの椅子をすすめた。私が腰を下ろすと、目の前に水割りのグラスが置かれた。
「人間の眼ってやつは勝手なものサ。自分にとって都合の良いものだけを映そうとする」
 カウンターの端に立てかけられた赤い傘からは止めどなく滴がしたたり落ち、床に水たまりを作っている。
「だが、少々の歪みはあっても、誰の目にも同じに映るものだってあるだろう。ほら、その傘の色の赤は誰にとっても赤だし、そこからこぼれ落ちているのは雨の粒なんだから」
 私がそう言うと彼女は紅い口唇の端を微かに歪めて笑い、傘の柄に手をかけた。
「おや、そうかい。あたしにはこの傘は青に見えるけどね」
 馬鹿な、と笑おうとすると、私は自分の眼を疑った。先刻まで確かに赤い色をしていた傘が、彼女の手の中で深い青色に変わっていた。そして、そこから落ちている雨の滴は、小さな硝子の玉に変わり、埃っぽい床に堅い音を立てて弾んでいた。
 彼女がまた、にいっと笑った。
「不思議なものだろう。ほら、こんなただの硝子玉みたいなものが二つ並んでいるだけなのに、見えるもののかたちも、色も歪めてしまう。挙げ句の果てに、」
 そう言うと、彼女は傘を大きく振った。その途端に傘は再び赤に戻り、小さな雨の粒が宙を飛んだ。
「見えないものまで、そこに映しこんじまう」
 外は相変わらず、雨のようだ。屋根を叩く滴の音がする。…いや、それともそれは小さな硝子の玉なのだろうか。目の前に置かれたグラスの氷がカランと音を立てた。
「…あの少女も、私の眼が見せた幻だと言うのか…」
「さあて、『あの少女』ってのはあたしゃ知らないが…」
 そう言うと彼女は先刻、壁に戻したばかりの仮面を外し、カウンターの下からこれもまた、さっき見た人形を取り出してきた。
「あんたが見たってのは、こいつだろう?」
 彼女は人形をカウンターの上に座らせ、その上に仮面を重ねて置いた。
 途端に人形は形を変え、紺の制服を着けた、美しい少女が、カウンターの上に立ち、私を見下ろしていた。私が追ってきた筈の少女だった。
「…小夜」
 無意識の裡に、その名を口にしていた。それは、四つのときに死んだ私の妹の名だった。幼い私が死なせてしまった…殺した、妹の名だった。
「人間ってのはつくづく勝手だよ。そこにあるときには欲しがらず、そこにないときにそれを欲しがる」
 私の両眼からは激しく、涙がこぼれ落ちていた。

 八歳の夏だった。私は幼い小夜を連れ、近くの川へザリガニを捕りに出かけていた。暑い日で、水面に反射する強い日差しが随分眩しかった。
 午過ぎ、顔見知りの駄菓子屋の親父が、自転車でラムネを売りに来た。酷く喉の渇いていた私は、妹をそこに残し、自転車の方へ手を振り、駆けていった。そして…
 そして…
 ギラギラした水面…ラムネ…すくい網…自転車のフレーム…ギラギラ…片方の靴…小夜…跳ねる水面…吹き出す泡…水面…日差し…ギラギラ…靴………

 眼の前には、美しい少女が立っている筈だった。いや、私の眼には、高校生になった小夜の姿が映っている筈だった。しかし、止めどない涙の粒がそれを掻き消していた。
 涙の粒は、床に落ち、無数の硝子の玉となって、堅い音を立て続けていた。


    12
 有希恵の弾く「クロイツェル」の旋律が宙に吸い込まれて消える。確かに、そこに存在していた音の余韻が空気をふるわせている。私はゆっくりと眼を開いて、彼女の方を見た。
「いかがでした?」
「うん、素晴らしい。ここにピアノが無くて、僕がグレン・グールドじゃないのが実に残念だ」
 有希恵はぴょんぴょんと飛び跳ねて笑った。「クロイツェル」は私がリクエストした曲だった。
 有希恵とのこの奇妙な関係がはじまってから、今日で五日めになる。私の週番も今日までだった。
「さぁ、先生、お話、お話」
 ヴァイオリンを仕舞い、有希恵が私の隣に座る。私はひとつ、大きく息を吐いてから、いつものように物語をはじめた。
「そうだな…今日は…大学のときの友達の話だ。いや、友達っていうのはフェアな言い方じゃないな」
「…恋人、だった人?」
「うん、そうだね。付き合っていた。もっとも、大学を卒業する前には別れていたけれど」

 彼女とつきあい始める前、短い物語を書いた。夢をモティーフとした連作短篇のなかの一篇だった。
 主人公「私」と一人の女性が二人で電車に揺られている。車窓のむこうは、見渡すかぎりの緑の草原に止めどなく雨が降っている。
 長く、暗いトンネルを抜けた後、彼女は自分の見た夢を「私」に話しはじめる。

『「夢を・・・見ていました。」
 美夜が窓の方を見ながら呟くように言った。窓の外には相変わらず、緑の水面が広がっていた。
「どんな?」
「すごく悲しい夢。私の部屋の窓に、小鳥たちがたくさんやって来て、楽しそうにおしゃべりしているんです。私も一緒にお話してるんだけど、そのうち小鳥たちは、もう帰らなきゃって飛んでいってしまうの。残念だね、まだお話ししたいねって私が言うと、小鳥たちは、じゃあ一緒においでよって言ってくれるんです。でも私には羽根がないし、どうしようって思ってると、いつの間にか私の背中に白い翼が生えてるの。これで大丈夫だって喜んでいると、さっきまで小鳥と話をしていた窓にはガラスが張ってあって、私は外に出ることができないんです。私が途方に暮れているうちに、小鳥たちはどんどん遠くへ飛んで行ってしまって・・・。すると、せっかく生えた羽根が、少しづつ溶けていってしまうんです。ゆっくり、雪みたいに。私、悲しくて、ずっと、座り込んで泣いて・・・。」』

 女性は眼が殆ど見えない。幼い頃、病気の高熱で視力を失った。光の差すことのない、暗い水の底を彼女は歩いているのだ。

『 電車は一向に止まる気配がない。大体、先刻から窓の外にあるのは草原ばかりで、一つも駅を通過した覚えがなかった。私は美夜に、何処まで行くのだろうと訊いた。
「ここです。次の次の駅です。」
 そう言って美夜はしわのない、きれいな切符を私に渡した。切符には見覚えのない駅の名前が刻まれていた。
「そこに行かなくちゃいけないんです。夜になる前に。」
 私が切符を美夜の手に戻すと、切符は黄砂のように小さな光の粒子に変わり、白いブラウスの合わせ目から彼女の胸元へと滑り込んでいった。
「一緒に、行ってくれませんか?」
 美夜は顔を上げ、まっすぐ私の顔を見つめていた。彼女の光を通さぬ両つの眼は、夏の夜明けの空のような色をしていた。紺碧。深く、悲しい色だ。
 私はポケットを探って自分の切符を探した。しわくちゃになった私の切符には、美夜のとは違う、これもまた見覚えのない駅の名が書かれている。一体、何処なのかわからない。美夜に駅の名を告げると、次の駅です、と答えた。私は次の駅で降りなければならなかった。すまない、と私が言うと美夜は軽く俯いたまま、首を振った。
「いいんです。わかってたんです、無理だって事。ごめんなさい、我儘を言って。」』

 次の駅、「私」は電車を降りていく。ただひとり、彼女を残して。

『 発車のベルが何処からともなく響き、電車は口を閉ざした。大きな鉄の塊が、身体をふるわせながら、私の背後で少しづつ速度を増していった。振り返ると、美夜を描いた窓がゆっくりと私の視界をスライドしていった。美夜はまっすぐ、進んで行く方を見つめていた。見えるはずのない、その先を。電車は再び、雨のなかへと戻っていった。今、車窓を過ぎて行く景色は私だった。』

 眼には見えない筈の先を彼女はしっかりと見つめている。たとえ一人になったとしても、彼女は「私」とともに途中下車しようとはしない。彼女には、「行かなくちゃいけない」場所があるのだ。小さな切符を手の中に握りしめて。
 彼女を乗せ、電車は雨のなかに、ゆっくりと走り出していく。

「違うよ…『降りない』んじゃなくて、『降りられない』んだよ…どんなに降りたいと思っても。『私』と一緒に降りたいと思っても…」
「そうだね…そうかもしれない」

 さつきは誰よりも自分に厳しかった。
 大学二年の五月、研究室の宿泊研修を企画したとき、集めたはずの会費がなぜか一万円だけ、足りないというアクシデントがあった。会計の責任者をやっていたのがさつきだった。
 一万円位のことならば、紙幣を数え間違えて少なく払ってしまった人間がいたのだろうというあたりで落ち着く話だ。当然、そのときも運営委員全員で頭割りにして負担しようという話になった。
 しかしさつきは会計係としての責任を一身に背負い、あくまでも自分の責任だから、自分ひとりが払うと主張し、曲げなかった。そして、仕舞いにはそれを宥める他のメンバーと口論になり、以後、気まずい雰囲気を卒業まで引き摺ることになる。そのメンバーのなかには、もともと彼女と仲の良かった友人もいた。
 彼女の自分への厳しさは時として、自分をそして自分の周りの人も傷つけることになった。そこには、底のない孤独と儚さ、脆さのようなものが混沌として渦を巻いている。

「もどかしさ…なのかもしれない…」
「自分への?」
「そういう風にしか生きられないことへの、かな」
 有希恵の眸が深みを増していく。

 さつきには、一緒に隣で生きていく誰かが必要なのかもしれない、と私は思った。
 「隣で」…それは酷く難しいことばだった。そういう考え方、見方がどれだけ彼女に対して傲慢であるか、或いは侮辱にさえなるかもしれない、ということは承知しているつもりだった。
 
 この物語の主人公「私」は最後に、彼女と一緒に生きていくことを決意し、途中下車したその駅で彼女を待ち続けようとする。

「…でも、彼女は戻ってくるの? そこへ」
「勿論、戻ってこないかもしれない。それでも、待つんだ。雨のプラットフォーム、ひとりで」
「ねぇ、先生、そういう生き方も…」

 限りなく、寂しい。彼女が求めているのは「私」の待つプラットフォームだとは限らないから。「誰か」の待っているプラットフォームが彼女の求めている、そのものだから。

 二年前、再びさつきと会う機会を、私は自ら捨てた。理由はいくらでも言える。だが、結局のところ、私はさつきを待ち続けることが出来なかっただけなのだ。

 それから数ヶ月後、彼女は脳内出血で倒れ、帰らぬ人となった。


 彼女の物語が終わった。気が付けば、私も有希恵も眼を閉じていた。私たちもまた、彼女の物語のなかに居た。
 有希恵の静かな声が聞こえてきた。
「ねぇ…先生…」
「うん?」
「やっぱり、あのお話、続けようよ」
「どんなかたちでも?」
「うん」
「ハッピー・エンドにならなくても?」
「うん」
「誰も、戻ってこないとわかっていても?」
「うん。それでも、先生はあのお話を書かなきゃいけないし、あの物語は語られなきゃいけないんだと思う」
 ゆっくりと眼を開くと、そこに、有希恵の深い色の眸があった。有希恵のからだを、意識を通過して、全てをあるがままに映し、湛えているかのような、両つの眸。
 そのなかに、私が映っていた。
 それが、「今」の私の姿に相違なかった。


    13
 目が覚めたとき、美夜子さんは先に起きていて、泣きはらした眼で申し訳なさそうな、そして恥ずかしそうな顔でベッドの上にちょこんと座り、僕の方を見ていた。
 顔を洗ってから、二人で昨日の喫茶店に入り、トーストとコーヒーだけの朝食を摂った。
「美夜子さん」
「はい?」
「…ひとつ、お願いを聞いてもらえますか?」
「私に出来ることなら、何でも」
「その…旦那さんとの思い出のお店、これから一緒に見に行ってもらえませんか」
 美夜子さんは少しだけ俯いて考えていたが、すぐに笑顔を見せてくれた。
「はい。どうぞ、見てやってください」
 それから僕たちはバスに乗り、もう彼女たちのものでなくなってしまった、雑貨店を見に行った。
 バス停から細い路地を入り、幾度か狭い角を曲がった袋小路に、その建物はあった。
 煤けた木で作られた小さな店だった。硝子の窓にはカーテンが引かれ、中の様子を覗くことは出来ない。屋根の上には雨に晒されて変色した看板が掲げられたままでいる。
 ―「森華堂」。それが彼女たちの店の名だった。
 美夜子さんはそれを、眩しそうに見上げた。その眼の中に、寂しい色は浮かんでいなかった。
 僕は美夜子さんに何か言うべきだったのだろうか。しかし、結局、何も言うことは出来なかった。
 何気なくポケットに手を突っ込むと、小さな丸い粒に指が触れた。僕は黙ったまま、摘んだ硝子玉を屋根の上に向けてかざし、覗き込んだ。美夜子さんもそれに倣った。
 そこには何も映ってはいなかった。ただ、細い幾条もの光の葉脈がはっきりと、僕たちの眼のなかに映っているはずだった。


  14
 気が付いたとき、そこに小夜の姿はなかった。あの化面と、そして無数の硝子玉が散らばっているだけだった。彼女が床にしゃがみ込み、その硝子玉を丁寧に拾い集めていた。
 私は床に跪いたまま、気を失っていたようだった。
「ここにあるのは、人々のなかの不在のかたちなんだ」 彼女が静かに言った。
「本当は強く求めているのに、そいつのなかには存在しないもの…それがここではかたちになる。そして、」
 彼女は立ち上がり、硝子玉の一つを摘んで見せた。
「満たされたとき、それはかたちを失い、消える」
 私が口を開こうとしたとき、背後で扉が開き、誰かが入ってきた。
「…おや、どうやらあんたも誰かに求められているみたいだヨ」
 彼女が眼を細めて、私の背後を見つめていた。
 振り向くと、麦藁帽子を被ったランニングシャツの少年が立っていた。…それは、八歳の私だった。
 急に私の膝がガクンと折れ、床に崩れ落ちた。見ると、膝から下が無数の硝子玉に変わり、辺りに飛散していた。
 薄れていく意識のなかで、四つの小夜の笑顔が浮かんでいた。


    15
 次の週の月曜日、職員会議で坂井有希恵が自主退学をしたことを知った。二週間前、両親が排ガス自殺を謀り、父親は死に、母親も植物状態になったままだという。

『ねえ、先生…やっぱり、あのお話、続けようよ』

 放課後、もう有希恵のいない教室に一人で座り、彼女の「クロイツェル」を下手な口笛で真似てみる。
 有希恵が腰掛けていた机の上を秋の陽が緋く染めていく。
 そこに、ポケットの中から小さな硝子玉を摘み出し、置いてみた。硝子玉はコロコロと転がり、床の上に落ちて堅い音をたてて弾んだ。
 私のなかで、確かに、物語が走り始めていた。〈了〉

 

 ※本文中の2、5、8、11、14については、「構想の会」ウェブサイト「Net of Ko-So」上で行われた、hirotaka氏、TOM氏、著者によるネットリレー小説『赤い傘』がベースとなっている。原案使用を快く承諾してくださった両氏に記して感謝する。

 

 

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